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吉田流あん摩術のルーツと今

杉山流と吉田流                                                                   

 「吉田流あん摩術」の歴史を知るには、江戸時代前期に盛んになった「杉山流あん摩術」の概要についても把握しておく必要がある。

 杉山流あんま術は、菅鍼法を考案したとされる検校の杉山和一(1610〜1694年)に創始された。杉山和一は世界で初めて視覚障害者の鍼、あん摩の教育施設として 「杉山流鍼治導導引古所」を設置し、視覚障害者の鍼、あん摩教育を行ったことで知られており、第5代将軍の徳川綱吉公の侍医にまでなった人物である。 江戸時代前期から、 視覚障害者の専業となった杉山流が広まり、笛を吹いて街中を流す視覚障害者があん摩を行っていた。

 そんななか、眼明き (晴眼者) のあん摩をつくり上げたのが、幕府の奥医師、石坂宗哲の弟子でもあった吉田久庵(写真1)である。吉田久庵が創始した吉田流あん摩術は、杉山流と双璧を成す、わが国を代表するあん摩術として、全国に広く知れわたっていく。 

 吉田流あん摩術の開祖とされている吉田久庵一世は、享和3年(1803年)3月20日に埼玉県北埼玉郡の一農家に生まれた。郷里で医学を学んだ後、長崎にわたったところ、蘭医術の精緻さに感奮興起して、鍼灸導引を極めた。天保3年(1832年)、江戸の日本橋四日市にて床見世で治療を始めたことが、吉田流の起源となる。

 吉田流あん摩術は弦楽器の弦を弾くが如くなす術であり、筋揉みを特徴とした。 一世の病人を救う医術の高さは神技のようであり、患者で門前市を成すほどであった。 稲葉候の定紋を下賜されたことより、卓越した技術を持っていたことは想像に難くない。また、家塾を開いて吉 田流を啓蒙して、多くの偉大な門下生を、 謝儀を受け取らず陶冶した。 安政3年(1856年)7 月18日、一世は54歳でその生涯に幕を閉じた。

 吉田流が活躍した時代の状況は、明治時代の語彙集 『日本社會事彙」(経済出版社)を紐解くとみえてくる。

「吉田流は皆目明きなれば、之を招くものの手引等の頃はしきなく、且つ強きゆゑに、世に流傳して、いまは杉山流に対峙して、 斯業を二分するに至れり」 杉山流と対峙するほどの勢力に成長した晴眼者の吉田流は、 時は二世の頃、文久元年(1861 年)、 杉山流と衝突することとなった。 杉山流を主張する人たちは、「眼の見える者が盲目の仕事をすれば盲目者は生活に苦しむ。 だから転業してほしい。 さもなくば我々を養ってくれ」と吉田流の家元へおしかけて、混乱を来した。 そんな事態を受けて、 南町奉行所は次のような判決を下している。

 「めあきのあん摩者は、路上を流して客をひろうこともなく、 病人の招きに応じてでかけるだけだから盲目の害とはならない。 盲目者の行為は不当である」

 二世(1836〜1896) は早くから父より仕事を受け継ぎ、 私塾を押し広め多くの子弟を輩出し たが、 子弟同士の競合を憂慮した。 そこで、あん摩仲間の規約として 「八丁四方の縄張りで、 一人のあん摩士がいれば新規の開業はできない」という旨の共済制度を設け、一定の距離をもって開業させることにした。 この共済制度によって、吉田流はますます繁盛することになった。 

三世へと受け継がれた伝統の術                                               

 二世の三人の息子はみな優秀であった。 勤勉な長男(真造)は慶応義塾で学業を修め、金融界で雄飛するはずであったが、夭折 (享年19歳)。父の訃とともに二男の仁造が家業を継ぎ、吉田久庵三世の誕生となった。 

 三世は明治12年(1879年)5月8日に生まれた。学業は優秀であり、慈恵医専(現・東京慈 恵医科大学)に合格。大学で解剖学、生理学といった基礎医学を修めている最中に父が倒れたため、医師への道を断念して襲名、 家業継承となった。一方、三男の久造は東京帝国大学で学んだ後、小児科の医師となった。久造は吉田流の啓蒙において三世を支え続け、晩年に至るまで日本あん摩術と西洋のマッサージの違いについて切実に説き、あん摩の有用性について喝破した。

 三世は、神経痛を患った日本海軍の東郷平八郎元帥を鍼で治療したこともある。東郷が病床で書いた「妙手隆昌」(写真2)の言葉は、三世の施術がいかに巧みだったかを物語っている。「吉田流は灸六分、針四分なり」との記載が『日本社會事彙』(前述)にあり、吉田流において鍼施術も行われていたことが推察されるが、具体的な術式は現段階では明らかにされておらず、主にあん摩術として知れわたるようになった。

 三世の教えを受けた者は数知れず、中村新三郎や平川荘作 (以降、平川)もこのなか中村は、経絡治療における鍼灸関連の研究を報告して、浅草に中村鍼灸院を開院した。主に鍼灸治療で活躍したため、吉田流あん摩術は事実上、三世の薫陶を受けた平川に校教育において引き継がれることになる。

 明治22年(1889年)、当時の東京府知事の訓令によって、優秀な人材で組織化され東京鍼灸治会が設立。三世はその会長を歴任した後、明治31年(1898年)には、吉田流一門保文益、大島友次郎、吉岡秀泰、江口啓吉らと東京鍼灸治会を設立し初代会長となった明40年(1907年)に鍼按灸治会附属講習所が設立されると、自ら所長となり後継者の あたった。

 ところが、この頃から、全国視覚障害者組合において「あん摩術は視覚障害者の専業にすべし」という主張が強くなっていく。これに対して、吉田流一門は視覚障害者と晴眼者と共栄を図る為の努力はしたものの、 大正3年(1914年)、 全国視覚障害者会によるあん摩専業案請願の件が衆議院によって可決されるに至った。

 この事態に、多くの晴眼者の代表である三世は、全会員による総決起大会を実施し請願運動を起こす。 帝国大学の木崎博士 (法医学)の協力を仰ぎ、障害者の専業とは医学的見地からしても許容できない旨の請願書を作製した。そして、この問題に対し理解を示し、専業案に強く反対の立場をとった医学博士の三宅秀委員の努力もあり、ついに否決するに至ることになったのである。

 三宅は、専業案に反対の意を唱えた理由として「視覚障害者に保護的専業を与える身体障害者にも専業を与えなければならず、さらに世界的に盛んに研究されつつあるあん摩療法を視覚障害者の専業にすることであん摩術の発展を妨げることになる」との旨を挙げた。​

吉田鍼灸医学校の開校                       

 大正8年(1919年)、三世は東京帝国大学医学部物理的療法科研究所嘱託となり、 授である真鍋嘉市郎の指導を受けるなど、患者のために自己研鑽に努めた 。

 昭和15年(1940年) 9月1日には、吉田鍼灸医学校 (写真4)が開校され、弟子の平川が主に指導を行った。翌年16年には大東亜戦争が勃発し、戦争の進展とともに鍼灸治会会長である三世自らが陣頭指揮にあたり、陸軍病院物療科に80名を超える吉田流核準術士を送り込んだ。

 昭和18年(1943年) に、 三世は東京鍼接灸治会会長を退任。浅見四郎に後を任せ、その後は疎開先である栃木市で過ごした。 不帰の客となったのは、昭和21年4月3日 (1946年)のことである。この年に会長が浅見から平川に変わり、東京鍼灸治会の名を「吉田親交会」と改めることになった。

 一世および二世について詳細に言及している文献は関東大震災を戦災などの影響で残念ながら煙滅してしまったが、三世については長男、 吉田誠氏が三世の十三回忌に際して発刊した『想い出』(昭和33年4月3日発刊)で触れている。 三世は面倒見の良い逸材の教育者であったため、多くの教え子に慕われていた。 息子が父を「理解のある良い父であった。厳格な内にも温容さがあり、子供達の意志を尊重し、いやしくも干渉がましいことはしなかった」と語っており、 几帳面で優しかった三世の人柄がうかがえる。

 政界、実業界の上層部との交流を積極的に行い、名誉職も数多く引き受け、人格、才能ともに優れた三世。それに惹かれた多くの弟子たちが、三世に育てられて、昭和時代のあん摩の担い手となって、活躍することになる。​

現在へと受け継がれる伝統の術                   

 現在に至るまで東京医療福祉専門学校に吉田流あん摩術が脈々と受け継がれてきたことは、 平川の功績によるところが大きい。

 平川は大正2年(1913年) に吉田久庵の直弟子で、 叔父にあたる平川林蔵の徒弟となった。 三世からの直接の指導を受けた一人としても知られている。平川は、先達から学んだ吉田流あん摩術を後世に遺すために吉田流按摩術士を育てようと、昭和 25年(1950年)、 東京の八丁堀の地に「東京マッサージ師養成所」を設立して後進の育成に注力した 。これが、現在の東京医療福祉専門学校の前身である。

 東京マッサージ師養成所の施設要項書には、次のように記されている。「天保年間より傳統ある吉田流あん摩技術の長所を取り入れたる完全なる、そして 越せる技術を修得しめる等其の他に必要なる教育を施して暴力、技術、体力、精神共に秀なる生徒を養成し國民の保健衛生に貢献せん事を以て目的とする」

 こうして、伝統ある吉田流の技を後世に還すための教育機関が設置されることになった。 在に至るまで、 東京医療福祉専門学校は吉田流の直系として技を伝承し、平川も教育者として 多くの吉田流按摩術士を世に送り出した。 これらの業績より、平川は勲五等に叙され瑞宝章 授与されている(写真6)。

 昭和49年(1974年)7月、 平川は83歳でこの世を去る。 亡くなる前年、 信代夫人に東京マッ サージ師養成所の所長を託した。 信代夫人の功績は、世の趨勢を見極めて、吉田流あん摩術のみならず鍼灸、介護福祉の分野にも力を入れ、学校教育の拡充を図ったことである。 多くの患者の治療にあたった叩き上げの信代夫人は、常に学生を想い昼夜問わず熱心に学生指導を行 晩年まで学生と触れ合う時間を大切にしていた。

 金子魁一博士 (1883~1953) は、 平川とともに吉田流あん摩術の啓蒙普及に尽力し、 マッサージについて長年研究した整形外科の学者である。 金子は次のように述べている。

 「江戸時代にあん摩法は杉山和一、吉田久庵出るに至って実に隆盛を極め、所謂杉山流及び吉田流の二大派を生じ杉山流は鍼術に優れ、 吉田流はあん摩術に秀で、所謂筋揉ミと称せられた」 (『日本内科全書』 の「巻二 按摩療法」より)

 同じ江戸時代を起源とした杉山流鍼灸術と吉田流あん摩術は、昭和の戦禍を生き抜き、 現在も医療と福祉の分野に貢献している。

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